Cyteのニッチな日記

普段考えているあれこれをつらつらと書いていきます。

”お願い”のお願い

こんな時間に(だからこそ)妙なことを思い出した。

 

 

私は十数年前にとある保育園に収容されていた。当時は3歳だっただろうか、バッタを洗剤の入った瓶の中に入れ、水を加えて放置させて固まらせてしまい、身動きの取れなくなったソレを可哀想に思って瓶を割って救出しようと試みるも割れた瓶でリスカしてしまい父親に怒られていたあの頃だ。

私の入っていた保育園は比較的普通の保育園であったとは思う。少し変なとこはあったかも。

或る日のこと、その日もいつものように朝保育園に預けられ、体操に始まり、お外に出てお散歩、お昼ご飯、お昼寝、お掃除など子供ながらに懸命に日課に取り掛かっていた(今思えばとても健康的で人間らしい羨ましい)。

そして夕方になると母親が迎えに来て、先生が見送る。いつもの流れだ、しかし先生がおかしなことを言い出した。

 

先生「かいちゃん(当時のあだ名)、帰ったらお父さんに”お願い”って言っちょって。」

私「(お、お願い?どういうこと?)」

 

先生も母親も何やらニヤニヤと笑いかけてくる。言われてることの意味が分からず、その日は父親に”お願い”と言うことはなかった。

 

数日後、朝の体操の時間に先生が児童全員に一言

 

先生「まだお父さんに”お願い”って言っちょらん人がおるよ、言っちょってね。」

 

私は少々不安な感情を抱きながらも、その日も何も言うことはなかった。というよりは言えなかった。というのも、当時の父は私から見ると非常に怖く見え、会話の途中で唐突に訳の分からないことを言うと怒られると思ったからだ。

 

そしてまた数日後、先生が私を見送るときに再びお願いをしてきた。先生が一人芝居を交えて言いつけてきたので会話の内容は非常に鮮明に覚えている。

 

先生「かいちゃん、お父さんに”お願い”って言って~。一言でいいから。」

私「ええ...。」

先生「こんな風に”おねが~い”って、そしたらお父さんが」

先生(父役)「何か、どうしたっか?」

先生(私役)「ねぇ、おねが~い。」

先生(父役)「何か分からんけど、よし!」

先生「...って言うから。」

私「(言うわけねぇ。)」

 

先生の言うことに不信感を抱きながらも、私は折れてその日風呂場で父親にこう言った。

 

私「ねぇお父さん。」

父「ん?」

私「何かね、先生がね、”お願いって言っちょって”って言っちょった。」

父「へ~(何を言ってるのだろうこの子は)。」

 

やや間接的で先生の理想通りにはいかなかったが、一応父親にお願いと伝えることができた。

するとそれ以降先生の催促はなくなった。

 

 

という話なのだが、自分で書いていても意味が分からなくなった。小さい頃に理解できなかっただけの話ならよくあるが、この話に関しては今考えてもよく分からない。

ちなみに去年この出来事について母に尋ねても何も覚えていなかった。

 

このままでは気持ちが悪いので、この不思議なお願いに無理やり仮説を立ててすっきりさせて終わりたい。

 

仮説1.お願いされたことを子供が守るかどうかのテストだった

つまり、子どもの情報伝達能力のような基本的な能力を測るためのテストだった。家族が揃った中でお願いと言った場合は、そのまま母親が先生に報告。私みたいに父親と二人きりの状況で言った場合には、突然”お願い”などと言われ困惑した父親が母親にそれを伝え、母親が先生に伝える。

しかし、この仮説には抜け目がたくさんある。例えば、母親がシングルマザーであった場合や、父親が母親に何も話さなかった場合である。

 

仮説2.ただの先生のおふざけ

大意は無く、何かしらの冗談で始めたことである。それを私が難しく考えすぎていただけかもしれない。

しかし、おふざけにしては何も面白くないのが問題点である。

 

仮説3.私の記憶違い、妄想、夢

可能性は一番低いが、すべて説明がつく。父親や先生から怒られることにより(当時の私はしょっちゅう怒られていた)少なからずストレスが蓄積されていって変な妄想をしたり夢を見たりしてしまったのかもしれない。或いは、全てが想像とはいわずとも先生の言葉を大きく聞き間違えていたりすることがある。

 

 

おしまい、人は何かしら変な記憶があるもの。

アルトサックスを始めた

実は一昨日、初めてサックスを手に取り演奏した。

 

私は現在モダンジャズ研究会に所属しており主にギターを弾いている。

予てより管楽器を演奏してみたいという欲求はあったものの、中学高校で管楽器に触れることができるのはせいぜい吹奏楽部。

吹奏楽部といえば女子が全てを支配する女尊男卑の世界、HR/HMを愛するギター少年が入部したところで酷く扱われるのが目に見えている(極度に偏った考え)。

いや、あそこで吹奏楽という境地に踏み込んでいたら私の人生は全く違うものになっていたのだろう...。

 

ともかく、私は現在レベルの高い管楽器プレーヤーの先輩方と毎回セッションをさせていただいている。管楽器について教えてもらうには最高の環境であり、あわよくば試しに演奏させてほしいなどのお願いもしたかったのだが、口を使う楽器なのでさすがに相手にあまり良い思いをさせないのではないかという考えがよぎり躊躇っていた。

 

ところが先月末朗報が入った!

部室に共用のアルトサックスがあるというのだ!(写真はまた今度)

 

というわけで一昨日、サックス奏者の先輩に御指南頂きながらアルトサックスを初演奏するに至ったのである。リード楽器ということもあり、音出しは案外すぐできたがその他慣れないことが多すぎる...。

まず、パーツが多すぎて混乱する。手元がごちゃごちゃしてるのでどこを押せばいいか全く分からない。しかしこれがよくできていて、しかるべき位置に手を置くとすべてのキーに届くようになっている!

そして、メンテナンスがとても面倒。呼気の中の水蒸気が管の内側に水となって付着するので、おもりの付いたクロスでしっかり水気を取らないといけない。また、タンポという管の穴を塞いだり開いたりするパーツの裏にも水が付着するため、シートで水気を取らなければならない。そうしないと本体とタンポが接着しちゃうとか...。ギターはたまーにクロスで弦を拭き拭きするだけです適当でごめんなさい。

しかし、サックスには他のどの楽器にも負けない音という魅力がある。ギターではとても出せないロングトーンやスローなアッタク、そしてやはりその音色は何度聞いても癒される。

 

ここから先は少々音楽的な話をする、ギターやピアノなどに慣れた人が管楽器に戸惑う所以である。

管楽器は全てC管B♭管E♭管...というようにアルファベットで分類される。これは、C(ド)の音の押さえ方をした時に実際に出る音を表している。

例えば、アルトサックスはE♭管なので、Cの押さえ方をしてもE♭の音が出る。逆に言えば、Cの音を出したい場合にはAの押さえ方をしないといけない。

私はこのことを言葉では理解できても頭でしっかりかみ砕くには少々時間を要した、ややこしい...。また、なぜそのような面倒なことをするのかというと、管楽器は大きさが異なるもののフィンガリングが統一されているそうだ。

 

そういうわけで、ジャズのセッションでも管楽器だけキーの違う楽譜を持っている。私はそんなことをしたら混乱してしまう。でもセッションには参加したい。

 

というわけで先輩から一つ提案された。

フィンガリング先行で音を覚えるからそうなるのであって、音先行でフィンガリングを覚えてもよいということであった。つまり、楽器から出る音を基準に指の形を覚えるのだ。これで今所持している楽譜で難なくセッションできる。

よし、来週までにオリジナルの運指表を作ろう。

漂流教室を読んだ

言わずと知れた楳図かずお氏の傑作「漂流教室」(全6巻)を読んだ。

f:id:YAHOO-777:20181004214326j:plain

おどろおどろしい表紙が不安を煽る。

 

ある日突然学校が遠い未来へきれいさっぱり飛んでしまうという衝撃的かつ独創的なあらすじを持つこの漫画、実によく人間の本性を表しているように思えた。

暴動ばかり起こるわ、未来の巨大生物に学校を襲われて子供がバタバタ死ぬわで終始バイオレンスな雰囲気であるが、時たま子供たちが突飛な行動をとるところで笑ってしまう。

例えば、

 

巨大な怪虫に学校を襲われる→以前の戦いの中で、気絶をすれば怪虫に食われても助かることが分かっている→理科室のクロロホルムを使って全校生徒を眠らせようと試みる→クロロホルムが足りなくなる→眠っていない人は何かにしがみついてモノになりきる作戦→なぜか成功、怪虫去っていく

 

イスになりきる主人公の高松翔

f:id:YAHOO-777:20181004224702j:plain

 

主人公の高松が盲腸になる→医者の息子だからという理由で一人の男の子が執刀をすることになる→ろくな道具もないまま手術開始→なぜか成功 

 

ツッコミどころが非常に多い。しかし、あのような殺伐とした環境下に置かれたら、自分もそう判断しかねないと考えてしまうのが怖いところ。

 

この漫画は多分ホラーSFというようなジャンルに分けられるのだが、今まで見てきた一般的なホラー作品とは違った恐怖を感じた。というのもこの作品には幽霊が出てこない、出てくるのは超常的な生物やミイラだけで心霊とは少し違う。では一体何が怖いのかというと、それは現実性(リアリティー)であると私は考える。物語の背景設定は全くの非現実であり、私たちの生活と物語の間には大きな乖離がある。しかし、力を持った大人が力の無い子供を操る場面や、お互い助け合わないといけないのにも関わらず私情や一部の人の我儘により仲間割れが起こり犠牲者が出る場面などは正に私たちが住む現代社会で実際に起こっている問題の縮図である。つまりこの漫画は、SFという何でもありの世界を使って現代社会への警鐘を鳴らしたということで評価されているのだろう。作品中でも述べられたように、大和小学校=国であると考えることで更にこの作品を理解できると思う。話の終わり方も、迷走する現代に向けた一つの打開策であるという風に思える。

初めまして

こんにちは、Cyteと申します。

 

ふと思い立ち、ブログを始めてみることにしました。

普段何かと考え事の多い私が、そのくだらない考えを皆様と共有するために使おうと思います。

 

それはそうと、このアカウントは元々小学生の時に「うごメモ」(懐かしいですね...)をやるために作ったものでして、5年ぶりくらいのログインだったんですがIDが意味分からんですね。当時の私はYahooが大好きだったようです。

 

取り敢えずのテスト投稿ですがよろしくお願いします。